文書の過去の版を表示しています。


庭園主🧑‍🔧とは

庭園主(Tíng Yuánzhǔ、ティン・ユェンヂュー)(1922年 – 2009年)は、日本の開拓民、関東軍軍属、対ソ防諜要員、庭園作家。
満洲生まれで戦前・戦後の北方地域に深く関わり、戦後は北海道での開拓・造園に従事し、後年は「北海道の影のフィクサー」と呼ばれた人物。
死後、「庭園主」は北海道の造園文化を象徴する栄誉称号として継承されている。

 庭園主は1922年、満洲国北部のソ連国境沿いに位置する寒村に生まれた。
当時は政情不安と貧困に常に晒されており、徴発・盗賊・越境兵との小競り合いが日常のように起こる過酷な環境であったという。
そんな過酷な地で幼少期の彼を支えたのは、北方特有の静謐な自然であった。
濃霧に包まれた白樺林、凍土原に差す朝焼け、氷結した河岸に咲く小さな野花——こうした光景は、貧しさの中でも彼に深い慰めを与えた。

庭園主は後年、自伝 『北辺にて、庭を想う』(1959) の中で当時のことをこう記している。
「貧しさと不安の続く満洲の村で、私を救ったのは白樺林の静けさであった。
寒霧の朝、霧氷が光を帯びる瞬間に、私は“凍った世界にも美は宿る”ことを知った。後に庭園をつくる道へ進んだのは、その“静”の感動がついに胸から消えなかったからである。」

また、国境沿いという地勢ゆえ、幼少期にはソ連兵と村人の摩擦や略奪を幾度も目にした。この体験は彼に深い不信感と警戒心を植えつけ、少年期のうちに“対ソ連兵”という確執が形成されることとなった。

満洲北東部の村に徴兵令が届いたのは、庭園主が二十歳になる直前であった。
国境地帯の治安悪化が続いたことで、沿線防備の強化が必要とされ、地域住民に対して臨時の動員が行われたのである。
当時、庭園主は健脚で知られていたため、村の長老から「お前なら連れ去られずに戻って来られる」と半ば励まされるようにして送り出された。
彼自身も、幼少期に村を襲った暴力や略奪への反感から、「二度とあの屈辱を味わわぬよう強くなりたい」と密かに決意していたと後に語っている。

庭園主をはじめとする村から民間徴発された者たちの配属先は、関東軍・独立歩兵第87連隊で、厳寒地での哨戒・冬季戦闘技術を重視することで知られた部隊であった。
そこでの訓練は庭園主らの想像を超える苛烈さを伴った。

  • 氷点下30度での夜間行軍
  • 50kg装備を担いだ斜面踏破
  • 氷河湖への落水を想定した脱出訓練
  • 迷彩服を使わず地形そのものを利用する隠形術
  • 限られた糧食での三日間耐久演習

しかし、庭園主はこの過酷な環境に、異様なほどすぐ順応してみせたという。

庭園主は訓練開始からあまり間を置かずに、当時の上官から高く評価された。特に評価されたのは次の点であった。
① 山地での俊敏さ
幼少期に山野を駆け巡って育った経験からか、急斜面急勾配を駆け抜ける、上がる動作は他の兵を圧倒しており、同僚たちは口々に“鹿脚(しかあし)”という渾名をつけた。
② 異常に正確な射撃
庭園主は銃火器を初めて触ったにもかかわらず、訓練初週で百発百中に近い精度を叩き出した。上官が「野生で磨かれた距離感覚だ」と称した記録が残されている。
③ 跡を読んで進む索敵力
凍土に残るわずかな圧痕、折れた枝、獣道の向きから周囲の動きを察知する能力に長けており、部隊内で斥候としての頭角を現した。

これらの能力により、連隊内では「この若者は普通ではない」、「戦場より密偵向きかもしれない」とたちまち噂になった。
特に副官の一人は報告書にこう記している。

  • 「庭園主は状況判断能力と射撃能力に長け、あらゆる場面で決して動じない。もし諜報任務を任せれば、大きな働きをするだろう。」

連隊司令部はこれらの報告をまとめ、上級機関へ「特務適性者」として推薦。
これがきっかけとなり、庭園主は極秘裏に「北辺防衛偵察局(Northern Frontier Intelligence Directorate:NFID)」への転属指示を受ける。
本人はこの転属を「今思うと、運命に引かれた」と親しい知人に後年語っていたとされるが、その詳細を語ることは生涯なかった。

1941年、庭園主は試験的に秘密防諜組織「北辺防衛偵察局(NFID)」の任務に試験的に投入され、その後能力の高さを認められて正式所属となる。
NFIDでは主に対ソ監視・潜入・攪乱を担当していたと推察されており、コードネーム「白影(しらかげ)」の名で呼ばれたとされている。
これは彼が雪原での潜伏・接近を得意としたことに由来すると思われるが、このNFID所属経歴の詳細については、現在に至るまで一切公開されていない。

1945年8月になると、ソ連軍の参戦により満洲戦線は急速に崩壊していった。
NFID要員であった庭園主は、機密文書の焼却と連絡線確保の任務中に、急速に南下してくるソ連軍との交戦に巻き込まれる事態に陥る。
戦闘の混乱の中で、護衛していた小隊と分断され、周囲は敵軍ばかりとなる絶望的状況の中、彼は機密書類の入った鞄を持ち、少数の生存者を率いて南へ逃れず、あえて北へ突破する「北上決死行」を敢行。
多数の犠牲を払いつつも国境沿いの小漁港に到達する。
彼らはソ連軍のわずかな隙を突き、夜闇に紛れ、老朽化した漁船を奪って日本海を強行突破。数日の死の危険に満ちた漂流の果てに、なんとか北海道北部の海岸に到達した。
庭園主は当時のことを「あれは今考えると、いや、当時でも破れかぶれの、あまりに無謀な死の行軍だった」と振り返っている。

北上決死行により、庭園主らは老朽船で日本海を漂流し続けた。
燃料も食料も尽きかけ、船体は波で軋み、沈没寸前──そんな極限状態で迎えた1945年8月下旬、ついに北海道北部 枝幸町・風烈布(ふうれっぷ)海岸に半ば漂流状態で接岸を果たした。
上陸後、彼らは近くの集落の漁民に保護された。
そこで住民の一人から「よう生き延びた。兵隊さん、戦争はもう終わったんだ」という信じがたい知らせを聞かされ、初めて終戦を知った。
庭園主は後年、この瞬間について次のように語っている。
「戦が終わったと知った時、胸に残ったのは勝敗の感情ではなく、 ただ“生き延びた”という静かな安堵だけだった。」
なお、彼らが漂着した時点で既にポツダム宣言受諾から十日以上が経過しており、彼らの一団は“最後期の帰還者”と見なされていた。

終戦直後の北海道北部は、避難民・復員兵・流民が急増し、地域行政は完全に麻痺していた。
特に宗谷・枝幸地域では、ソ連軍の南下を警戒するため、自治体は急ごしらえの“準治安部隊”を編成していた。
そのひとつが、開拓作業と地域防衛を兼ねる「屯田兵的開拓団」であった。

庭園主は回復後、流民のひとりとして歌登へ移送されることとなる。
しかしその際、身元確認係が疲労で倒れ名簿担当が交代し、記録が前後するトラブルが発生。
その結果として
・漂着者
・避難移民
・復員兵
・身元不明者
の複数人が名簿に記載されない自体が発生したとされる。
しかし上記は本人談によるものだが、実態は身分発覚を恐れた庭園主ら元NFID所属者による偽装工作だったとする説がある。
その根拠として、庭園主と共に海を渡ったはずである元NFID所属者らの消息はここで途絶えており、庭園主も彼らの行方を生涯語ることはなかった。
そんな中で、庭園主は自然に「開拓団・労務兼警備班」へ組み込まれることとなった。

当時の歌登町記録には、彼と思われる人物について
「身元不詳ながら、働きぶり良く、寒冷地に異様に強い男」
とのメモが残されている。

さらに、夜間警戒中の彼の動きや武器の巧みな取り扱いに驚いた班長が「お前は軍隊あがりか?」と問いただしたが、
庭園主は一言、「少し…(実際は少しどころではない)」とだけ答えたという逸話もある。
その翌日には正式に防衛兼任・開拓班の一員として扱われ、完全に“屯田兵待遇”での生活が始まった。

庭園主は1945年末より、北海道枝幸郡歌登地区において、戦後混乱期の“屯田兵的部隊”に所属。
開墾・治安維持・野生動物警戒などの任務に従事した。
この部隊は正式には屯田兵制度ではないが、戦前から続く「防衛兼農耕組織」の名残を受け継いだもので、地域史では「戦後屯田隊」と呼ばれる。

任務と役割

歌登地区は戦後の人口流出が著しく、農地整備・道路建設・集落維持のために大量の労働力が必要とされた。
庭園主はその中で、次のような任務を担った。

  • 未開地の伐採・測量・湿地排水作業
  • 熊・狼の警戒活動(特に夜間巡察)
  • 豪雪時の集落支援・遭難者捜索
  • 密猟者・盗伐者への警戒(半ば治安任務)
  • 新生集落の護衛兼雑役

その中でも特に、彼が参加した 「ポンウタノボリ川上流域の先遣開拓」は道北開拓史に残るほど過酷な作業で、この地域を後に農地として利用可能にした功労者として、記念碑に名前を連ねている。

周囲からの評価

庭園主はその前歴からか、あまり他人との積極的な交流を好まなかったという。
そのため周囲からは寡黙で冷静な人物として知られていた。
しかし、極寒の作業に多くが脱落する中、庭園主は常に先頭に立ち続けた。
次第に周囲からは「寡黙な鶴嘴(つるはし)男」「庭園(ていえん)さん」
などと呼ばれ、開拓団の精神的柱となっていった。

足跡

戦後10年のうちに歌登周辺で開拓された地区には、いまでも地元住民に“白庭沢”と俗称される場所がある。
これは過酷な吹雪の中、庭園主が迷った開拓民5名を発見・救助した逸話に由来するといわれている。(地図上の正式名称ではない)

1950年代に入ると、庭園主は開拓作業の合間に、石・白樺・苔・湧水・流木といった自然素材を用いて小規模な庭を造り始めた。
これらは幼少期に満洲で見た原風景を形にしたもので、これが歌登の役場関係者の目に留まる。
以降、彼は本格的に造園家として活動するようになり、“北土自然式庭園”と呼ばれる独自の様式を築く。 彼の庭園は、以下の特徴で評価される。

  • 北海道の凍土・湿原を生かした“沈み庭”の構造
  • 白樺林を借景とする大胆な直線美
  • 満洲原野への郷愁を思わせる荒涼かつ雄大な構図
  • 手を加えすぎず、自然の“偶然”を残す哲学

その様式が高く評価され、庭園主は北海道の政治家・企業家の別邸、大規模公園、公共施設庭園などを手掛けるまでになった。
NFID時代に培った人心掌握術と、天性ともいえる庭園のスキルを過不足なく活かして人脈を広げた庭園主は、次第に 「北海道の影のフィクサー」 として一部の有力者に知られる存在となっていく。
その“裏”の活動の多くは1950年代以降とみられ、政治・行政・地域経済における非公式の調整役として暗躍したとされているが、
その詳細や痕跡はほぼ全ての公的記録に残されておらず、死後に証言や当時者の回想によって断片的に知られるようになった。

屯田兵を脱退後、庭園主は北海道北部・歌登を拠点に造園家として名を挙げる一方で、地元自治体・林野庁関係者・農協・漁業組織など、多方面に太い人脈を築いた。
その背景にはNFIDでの人心掌握術の他に、彼が開拓初期から治安維持・狼熊害対策・集落警備に積極的であったことが大きく、
「困ればまず庭園主に相談せよ」と言われるほどの求心力を持つようになった。
1950年代後半から1970年代にかけて、道北の道路延伸計画、入植地区再編、水源林保護などの地域政策に、彼が“非公式の調整役”として関与していたことは複数の回想録に残っている。
彼は公職につくことはなかったが、誰よりも土地と人を知り、時には行政職員よりも影響力があったといわれる。

晩年の証言集には、次のような“裏の顔”を示唆する記述も存在する。

  • 歌登・浜頓別周辺で、正体不明の元軍属らしき人物が庭園主を「隊長」と呼んでいた
  • 1960年代、彼の庭作業小屋に「外国語が話されていた」という住民の証言
  • 戦後に彼の元で働いた労働者の数名が、身元を明かさないまま転出した
  • 開拓期に行方不明になった数名の「北方帰還兵」と、庭園主の関係を匂わせる史料

これらはすべて裏付け不明であり、研究者の間でも「NFID残党が彼のもとに潜伏していたのではないか」 という推測に留まっている。

また、庭園主の高度な野外技術や情報接触の仕方が、一般人以上の“何か”を感じさせることは複数の回想録などでも指摘されており、彼の影響力が異常に広範だった理由として語られることが多い。
庭園主は特定の権力に組しない一方で、自身の情報網や人脈を駆使し、衝突しそうな勢力同士の“落としどころ”を自然と作り出す役割を果たした。
そうした中で道北では次第に「庭園主が動けば物事が収まる」として、「影のフィクサー」としての地位を盤石なものとしていった。

晩年まで現場に立ち続けた庭園主だが、79歳を迎えた2001年、後進育成と庭園文化支援を目的として
「庭園主記念自然造園財団」を設立する。
庭園主率いる財団は以下の活動を行った。

  • 北海道各地の庭園文化の保存
  • 若手造園家への奨学金
  • 自然素材研究と景観保護
  • 歌登地区の作庭史編纂

2009年、87歳で死没。
葬儀は非公開で行われ、遺志により出身や軍歴などの詳細は公にされなかった。
死後、財団理事会は彼の功績を讃え、「庭園主(ていえんしゅ)」を正式に“名誉称号(栄誉職)”として残すことを決定。
以後、財団における名誉顧問職は「庭園主」の称号を冠して呼ばれるようになった。

そして現在まで、庭園主の名は造園文化・開拓史・地域史の象徴として北海道に根付き続けている。

庭園主が開拓団生活の最中、慰霊のために仲間の眠った小高い丘に自然石と白樺を組んで造ったとされる小庭。
荒廃した土地を前に「せめて仲間の眠る地に静かな風景を」と意図した場所で、現地では“庭園主の原点”として語られる。
庭園は1970年代に管理者不在のため一時的に荒廃したが、現在は財団と歌登郷土資料保存会により復興・保全されており、「庭園主発祥の地」の碑が立つ。

庭園主財団から寄贈された資料をもとに、没後10年の命日に開館した小規模記念館。
展示内容は以下の通り(一部抜粋)

  • 庭園主の工具・図面
  • 満洲時代の家族写真(提供者不明)
  • 開拓団時代の写真
  • NFIDのものとされる暗号表(真偽不明)
  • 庭園主財団による庭園保全資料

庭園主が79歳で設立した「庭園主庭苑保存財団」の本部に造営された石庭。
財団設立記念として本人が監修した最後の庭で、

  • 満洲の凍土を模した白砂
  • 北海道の安山岩を北斗七星状に配置
  • 中央に「無言の守護者」と刻まれた石碑

など、集大成的意匠となっている。石碑の裏面には、彼の遺言めいた一文が刻まれる。
 
 

    「庭は語らず、ただ在るのみ」
 
 

  • 庭園主.1764934403.txt.gz
  • 最終更新: 2025/12/05 20:33
  • by 金玉右大臣_左大臣兼任