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枯石奉載祭(こくせきほうさいさい)
枯石奉載祭とは、2002年より札幌市庭園主記念自然造園財団が主催する、古式作庭儀礼を基にした神事・競技祭である。
財団本庭園にて毎年7月に執り行われ、参加者は財団所有の岩稜地帯「青碑嶺(せいひれい)」にて1〜2t級の“神石(しんせき)”を人力で掘削・切り出し、約3.8km離れた財団本部の庭園まで曳行する。
現在では、作庭技法・儀礼性・競技性・観光性が融合した 北海道屈指の造園文化祭として知られ、 毎年8,000〜12,000人の観客が訪れる。
概要
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 主催 | 札幌市庭園主記念自然造園財団(創設者:庭園主) |
| 開催地 | 財団本庭園(札幌市郊外・白籟谷付近) |
| 岩源 | 青碑嶺(財団所有の岩山) |
| 開催時期 | 毎年7月第2週ごろ |
| 距離 | 3.8km(青碑嶺 → 財団本部併設の庭園) |
| 参加チーム数 | 3〜7チーム |
| 参加者総数 | 約320〜480名 |
| 観客動員 | 8,000〜12,000名 |
| 運搬対象 | 1〜2t級の神石 |
「枯石」とは、枯山水庭園の象徴石を指し、 石を“庭の魂”として迎え入れる作庭思想が背景にある。
名称の由来
「枯石(こくせき)」は枯山水における象徴石、「奉載(ほうさい)」は“神前へ石を奉り載せる”古語で、庭園文化と神事性を兼ね備えた名称として2002年に財団理事会により制定された。
歴史
起源(伝承)
青碑嶺一帯では、古くから霊石信仰があり、江戸中期の記録として宝永年間の巻物
『青碑嶺造苑旧記(せいひれいぞうえんきゅうき)』に祭礼の原形とみられる儀礼が記されている。
「夏至を過ぎし七日、村人ら岩を削りて縄を結び、庭の端まで運びて碧座を鎮む。」
—『青碑嶺造苑旧記』巻一
また同巻には、
「石曳きの道にて倒れし者あらば、その雨、田を潤すという。血を地に落とすことは忌むべし。」
とあり、既に当時から危険性を帯びた神聖儀礼であったと考えられる。
廃絶から再興へ
枯石奉載祭の原型となる催しは、明治期までは細々ながらも地域の年中行事として継承されていたとされるが、日露戦争(1904–1905)の影響により急速に衰退したとみられる。
当時北海道では軍需景気が広がり、労働力が軍関連産業へ流出したことで、地域共同体によって支えられていた民俗祭礼の多くが担い手不足となっていった。
特に、庭石運搬に従事していた人夫や造園技術者が軍務・軍属業務に動員され、「石を奉載する」という儀礼そのものの実施が困難となったため、祭りは自然消滅的に途絶した。
その後、大正期・昭和初期の社会変動、さらに戦時体制下の文化統制も重なり、枯石奉載祭の原型となった催しは「かつて存在した庭園儀礼」として口伝のみがわずかに残る状態となっていた。
昭和末期、庭園史研究家が発見した『石苑記抄補』断簡に、祭礼の構造と儀礼文が部分的に記されており、これが後世における再興の重要な根拠となった。
2001年、庭園主(ティン・ユェンヂュー)氏が札幌市庭園主記念自然造園財団を創設。
翌2002年、地域活性化と庭園文化復興を掲げ、残存史料と口承を基に儀礼形式を再構築した。
こうして枯石奉載祭は、近代に失われた伝統を継承しつつ、現代的な庭園文化の象徴として再興された。
祭りの流れ
1. 神石選定(しんせきせんてい)
祭礼責任者「庭司(ていし)」が山頂の霊石前で祝詞を唱え、地質学者チームが採掘区画を定める。
2. 掘削(くっさく)
楔・ノミを模した工具を用い、複数班が人力で切り出す。
チームは選定された岩を削岩器・鎚・楔を用いて切り出す。
この際、古式の道具使用を原則とするが、安全上・時間的制約の都合から現在は一部現代工具も許容されている。
3. 曳行(えいこう)
約3.8kmの山道を、縄・梃子・木そりを使い、最大60名程度の人員で牽引する。
最難所は急勾配の「蛇折坂(じゃおりざか)」で、毎年多くの脱落者を出す。
4. 奉載式(ほうさいしき)
庭園内の奉石壇に神石を据え、祭主(財団代表・庭園主)が神石へ祝詞を奏上する。
その後、審査委員が
- 岩の形状・風合い
- 採掘精度
- 運搬中の危険度
- 据付の安定性
- 庭園との調和性
などを基準に点数化し、最優秀チームが選出される。
なお、奉載された庭石はその年の「当年石(とうねんせき)」として一年間庭園に展示される。
5. 表彰(ひょうしょう)
最優秀チームには「玉庭徽章(ぎょくていきしょう)」が授与される。
主な参加チーム
庭園主御庭番衆(ていえんしゅ おにわばんしゅう)
札幌市庭園主記念自然造園財団に直属する精鋭作庭団であり、枯石奉載祭における最多優勝記録を保持する“絶対王者”。
元は財団創設者・庭園主(ティン・ユェンヂュー)により選抜・育成された職能集団で、現在も石搬送・据付・地形判断・砂紋形成のすべてにおいて最高水準の技能を持つ。
その動きは「寸分違わぬ連携」「儀式のような静謐さ」と評され、作庭開始の合図と同時に流れるように石が据えられていく様は祭りの名物となっている。
伝統と合理性の両立を極限まで高めた“御庭番式静動法”を用い、観客からは畏敬を込めて「碧庭の守り手」と呼ばれる。
コタン石霊会(いしりきかい)
アイヌの自然観・造庭観を継承する有志グループで、札幌近郊のコタンの協力者や研究者、若い職人らで構成される。
山川草木にカムイ(神格)を見いだす思想をもとに、石を“物”として扱うのではなく「宿る気配」を尊重する独特の作庭姿勢を持つ。
重い石でも無理に動かさず、石自らが“座す場所”を探すとされる「カムイノミ式配置」を行う点が特徴で、その柔らかい地形表現は他のチームにはない深い静けさを帯びる。
主に地元民からの支持が強く、芸術性評価部門では毎年上位に食い込む強豪。
一部の古記録では、明治以前の「枯石祭原型行事」に彼らの祖先伝承が関わっていたとも噂され、祭りの精神的支柱としても注目されている。
北苑石組(ほくえんいしぐみ)
札幌市北区を拠点とする老舗の庭石専門会社。
大正期から続く「北苑式石据え」の伝統継承を掲げ、重量級の自然石を精密に扱う技術に定評がある。
大会では質実剛健・定石重視の構成を選ぶことが多く、観客からは“北の堅牢”の異名で呼ばれる。
札幌造形大学・作庭研究会
若手造園家・デザイナーの登竜門として知られる大学サークルチーム。
CADと伝統技法を融合させる発想力に長け、「前衛的枯山水」を毎年打ち出す平均年齢22歳の若き挑戦者集団。
重量級の石搬送では経験不足が露呈しがちだが、軽量石の扱いや配置の造形センスは目をみはるものがある。
奇抜な構図や発想で審査員を困惑させることもしばしばだが、SNS人気は非常に高く、ダークホースとして近年注目を集めている。
優勝歴
| 年 | 優勝チーム |
|---|---|
| 2002 | 庭園主御庭番衆 |
| 2003 | 森厳会 |
| 2004 | 北苑石組 |
| 2005 | コタン石霊会 |
| 2006 | 庭園主御庭番衆 |
| 2007 | 郷土山川社 |
| 2008 | (中止:事故のため) |
| 2009 | (中止:事故のため) |
| 2010 | 庭園主御庭番衆 |
| 2011 | 北辰石道連 |
| 2012 | 庭園主御庭番衆 |
| 2013 | 札幌造形大学・作庭研究会 |
| 2014 | 庭園主御庭番衆 |
| 2015 | 森厳会 |
| 2016 | 庭園主御庭番衆 |
| 2017 | コタン石霊会 |
| 2018 | 庭園主御庭番衆 |
| 2019 | 北苑石組 |
| 2020 | (縮小開催・無観客)庭園主御庭番衆 |
| 2021 | (縮小開催・無観客)郷土山川社 |
| 2022 | (縮小開催)庭園主御庭番衆 |
| 2023 | 森厳会 |
| 2024 | 庭園主御庭番衆 |
| 2025 | 庭園主御庭番衆 |
2008年 枯石奉載祭落石事故
2008年7月に開催された第7回『枯石奉載祭』において、奉載ルートの斜面(青碑嶺南斜面)から大規模な岩塊が崩落し、観客・参加者に多数の死傷者を出す重大事故となった。
概要
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 発生日時 | 2008年7月13日 14:21 |
| 発生場所 | 青碑嶺・南斜面 |
| 祭名 | 第7回 枯石奉載祭 |
| 崩落岩の推定重量 | 約1.2t〜1.35t |
| 事故概要 | 奉載作業中、上段棚岩が突然崩落し観客席へ滑落、飛散。観客・参加者を巻き込む大規模事故となった。 |
| 死者数 | 9名(観客7・参加者2) |
| 負傷者数 | 34名(重傷15・中軽傷19) |
| 施設被害 | 観客席施設の一部破損 |
| 主原因 | ・岩内部の亀裂や内部空洞化の未把握(事前調査不足)・奉載動作による局所振動の影響など |
調査委員会報告(2009年最終報告書より抜粋)
「構造物自体の劣化」「斜面安定性調査の未実施」「観客との距離不足」という複合的要因が重なった結果として発生した事故であると結論付けた。
遺族・負傷者への補償
事故を受け、札幌市庭園主記念自然造園財団は第三者機関を介し、大規模な賠償措置を行った。
補償内容
* 死亡補償金:1名あたり 4,500万円〜5,200万円
* 重傷補償:300万〜900万円
* 中軽傷補償:50万〜120万円
* 長期的な後遺症を持つ負傷者には別枠の補償契約を締結
* 遺族の希望者にはカウンセリング支援を提供
財源
* 財団災害補償準備金
* 庭家からの特別寄付
* 市の文化行事安全対策補助金
* 一部は保険適用
交渉は一時難航したが、2009年末にはすべての遺族・負傷者との和解が成立した。
慰霊碑の建立
2011年7月、事故から3年後に、現場近くの南斜面脇に'静石之碑(せいせきのひ)' が建立された。
慰霊碑概要
- 高さ:1.8m
- 材質:事故で崩落した棚岩の一部を再加工
- デザイン:破断面を意図的に残し「記憶の継承」を象徴
- 背面に犠牲者9名の名を刻む
- 毎年祭の前日には献花式が行われる
※碑の建立は財団・遺族会・参加チーム代表の三者協議によるもの。
事故後の改善措置
- 南斜面の大規模補強工事(岩盤固定など)
- 観客席の後退配置と防護柵の設置
- 地質・石組構造の定期診断制度の導入
- 奉載ルート監視員の増員
- 事前安全点検の外部委託と義務化
- 運営責任体制の明確化
など
社会的影響
事故は全国ニュースで大きく報じられ、関西地方のだんじり祭り同様「伝統行事と安全対策の両立」を巡る議論を呼んだ。
多くの自治体で同種の斜面利用行事や重量奉載イベントの見直しが行われ、文化行事の安全基準整備が進む契機となった。
再開までの動き
事故後、地域住民や専門家の間では「枯石奉載祭そのものを中止すべきだ」との意見が強まり、財団理事会でも中止案が正式に俎上に載った。
一方で、古い作庭文化の象徴として本祭を重視する立場からは、厳格な安全対策を前提とした継続を求める声が上がり、議論は二年近くに渡り行われた。
最終的に、斜面補強工事・観客導線の刷新・緊急体制の常設化などの恒久対策が整ったことを受け、事故から2年後の2010年に祭りは再開された。
しかしその背景には、札幌市の希少な観光資源としての重要性に加え、市と財団の財政的・政治的な事情も再開判断に影響したのではないかという指摘もある。
庭園主による言葉
枯石奉載祭の再興に深く関わっていた故・庭園主氏は、生前、たびたび岩と庭作りの精神性について語っていた。
財団に残された講話録には、次のような言葉が記されている。
「石とは、地の記憶である。
それを担ぎ、運び、据えることは、人が自然と契約を結ぶ行いにほかならない。
庭とは、祈りの形である。
血と汗と呼吸により据えられた石は、百の言葉より雄弁に土地の気配を伝える。
枯石奉載の道は常に危険をはらむ。しかし、危険を避けるだけの庭には魂が宿らない。
人が石に向き合い、石が人に応える――その交わりを後世に残したい。
この祭りが続く限り、庭園は朽ちぬ。
たとえ私がいなくなろうとも、石を担ぐ者がいる限り、庭は未来へ歩み続けるだろう。」
これらの言葉は、現在でも参加者や財団関係者の間で引用され、枯石奉載祭と北海道地方における庭園関係者の精神的支柱として語り継がれている。