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| 庭園主 [2025/12/05 20:42] – [■ 初期訓練] 金玉右大臣_左大臣兼任 | 庭園主 [2025/12/07 18:27] (現在) – [● 庭園主財団本部石庭(札幌市)] 金玉右大臣_左大臣兼任 | ||
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| ====== 庭園主🧑🔧とは ====== | ====== 庭園主🧑🔧とは ====== | ||
| **庭園主(Tíng Yuánzhǔ、ティン・ユェンヂュー)**(1922年 – 2009年)は、日本の開拓民、関東軍軍属、対ソ防諜要員、庭園作家。\\ | **庭園主(Tíng Yuánzhǔ、ティン・ユェンヂュー)**(1922年 – 2009年)は、日本の開拓民、関東軍軍属、対ソ防諜要員、庭園作家。\\ | ||
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| //** | //** | ||
| - | また、国境沿いという地勢ゆえ、幼少期にはソ連兵と村人の摩擦や略奪を幾度も目にした。この体験は彼に深い不信感と警戒心を植えつけ、少年期のうちに“対ソ連兵”という確執が形成されることとなった。 | + | また、国境沿いという地勢ゆえ、幼少期にはソ連兵と村人の摩擦や略奪を幾度も目にした。この体験は彼に深い不信感と警戒心を植えつけ、少年期のうちに“憎きソ連兵”という確執が形成されることとなった。 |
| ===== 青年期 ===== | ===== 青年期 ===== | ||
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| ==== ■ 初期訓練 ==== | ==== ■ 初期訓練 ==== | ||
| - | 庭園主をはじめとする村から民間徴発された者たちの配属先は、**関東軍・独立歩兵第87連隊**で、厳寒地での哨戒・冬季戦闘技術を重視することで知られた部隊であった。\\ | + | 庭園主をはじめとする近隣の村から民間徴発された者たちが配属されたのは**関東軍・独立歩兵第87連隊**で、厳寒地での哨戒・冬季戦闘技術を重視することで知られた部隊であった。\\ |
| そこでの訓練は庭園主らの想像を超える苛烈さを伴った。 | そこでの訓練は庭園主らの想像を超える苛烈さを伴った。 | ||
| * 氷点下30度での夜間行軍 | * 氷点下30度での夜間行軍 | ||
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| ===== 終戦直前の戦闘と逆行突破 ===== | ===== 終戦直前の戦闘と逆行突破 ===== | ||
| 1945年8月になると、ソ連軍の参戦により満洲戦線は急速に崩壊していった。\\ | 1945年8月になると、ソ連軍の参戦により満洲戦線は急速に崩壊していった。\\ | ||
| - | NFID要員であった庭園主は、機密文書の焼却と連絡線確保の任務中に、急速に南下してくるソ連軍との交戦に巻き込まれる事態に陥る。\\ | + | NFID要員であった庭園主は、機密文書の焼却と連絡線確保の任務中に、急速に南下してくるソ連軍との交戦に巻き込まれる事態に陥った。\\ |
| 戦闘の混乱の中で、護衛していた小隊と分断され、周囲は敵軍ばかりとなる絶望的状況の中、彼は機密書類の入った鞄を持ち、少数の生存者を率いて南へ逃れず、あえて北へ突破する「**北上決死行**」を敢行。\\ | 戦闘の混乱の中で、護衛していた小隊と分断され、周囲は敵軍ばかりとなる絶望的状況の中、彼は機密書類の入った鞄を持ち、少数の生存者を率いて南へ逃れず、あえて北へ突破する「**北上決死行**」を敢行。\\ | ||
| 多数の犠牲を払いつつも国境沿いの小漁港に到達する。\\ | 多数の犠牲を払いつつも国境沿いの小漁港に到達する。\\ | ||
| - | 彼らはソ連軍のわずかな隙を突き、夜闇に紛れ、老朽化した漁船を奪って日本海を強行突破。数日の死の危険に満ちた漂流の果てに、なんとか北海道北部の海岸に到達した。\\ | + | 彼らはソ連軍のわずかな隙を突き、夜闇に紛れ、老朽化した漁船を奪って日本海へ強行突破。海図もない死の危険に満ちた漂流の果てに、命からがら北海道北部の海岸に到達した。\\ |
| 庭園主は当時のことを「あれは今考えると、いや、当時でも破れかぶれの、あまりに無謀な死の行軍だった」と振り返っている。 | 庭園主は当時のことを「あれは今考えると、いや、当時でも破れかぶれの、あまりに無謀な死の行軍だった」と振り返っている。 | ||
| ===== 北海道にて終戦を知る ===== | ===== 北海道にて終戦を知る ===== | ||
| - | 北上決死行により、庭園主らは老朽船で日本海を漂流し続けた。\\ | + | 北上決死行により、庭園主らは老朽船で数週間もの間日本海を漂流し続けた。\\ |
| - | 燃料も食料も尽きかけ、船体は波で軋み、沈没寸前──そんな極限状態で迎えた1945年8月下旬、ついに北海道北部 枝幸町・風烈布(ふうれっぷ)海岸に半ば漂流状態で接岸を果たした。\\ | + | 燃料も食料もとうに尽き、船体は波で軋み、沈没寸前──そんな極限状態で迎えた1945年8月下旬、ついに北海道北部 枝幸町・風烈布(ふうれっぷ)海岸に半ば漂流状態で接岸を果たした。\\ |
| 上陸後、彼らは近くの集落の漁民に保護された。\\ | 上陸後、彼らは近くの集落の漁民に保護された。\\ | ||
| そこで住民の一人から**「よう生き延びた。兵隊さん、戦争はもう終わったんだ」**という信じがたい知らせを聞かされ、初めて終戦を知った。\\ | そこで住民の一人から**「よう生き延びた。兵隊さん、戦争はもう終わったんだ」**という信じがたい知らせを聞かされ、初めて終戦を知った。\\ | ||
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| の複数人が名簿に記載されない自体が発生したとされる。\\ | の複数人が名簿に記載されない自体が発生したとされる。\\ | ||
| しかし上記は本人談によるものだが、実態は身分発覚を恐れた庭園主ら元NFID所属者による偽装工作だったとする説がある。\\ | しかし上記は本人談によるものだが、実態は身分発覚を恐れた庭園主ら元NFID所属者による偽装工作だったとする説がある。\\ | ||
| - | その根拠として、庭園主と共に海を渡ったはずである元NFID所属者らの消息はここで途絶えており、庭園主も彼らの行方を生涯語ることはなかった。\\ | + | その根拠として、彼と共に海を渡ったはずである元NFID所属者らの消息はここで途絶えており、庭園主も彼らの行方を生涯語ることはなかった。\\ |
| そんな中で、庭園主は自然に**「開拓団・労務兼警備班」**へ組み込まれることとなった。 | そんな中で、庭園主は自然に**「開拓団・労務兼警備班」**へ組み込まれることとなった。 | ||
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| さらに、夜間警戒中の彼の動きや武器の巧みな取り扱いに驚いた班長が「お前は軍隊あがりか?」と問いただしたが、\\ | さらに、夜間警戒中の彼の動きや武器の巧みな取り扱いに驚いた班長が「お前は軍隊あがりか?」と問いただしたが、\\ | ||
| - | 庭園主は一言、「少し…(実際は少しどころではない)」とだけ答えたという逸話もある。\\ | + | 庭園主は一言、「少し…(※実際は少しどころではない)」とだけ答えたという逸話もある。\\ |
| その翌日には正式に防衛兼任・開拓班の一員として扱われ、完全に“屯田兵待遇”での生活が始まった。 | その翌日には正式に防衛兼任・開拓班の一員として扱われ、完全に“屯田兵待遇”での生活が始まった。 | ||
| 行 201: | 行 202: | ||
| ==== ● 庭園主財団本部石庭(札幌市) ==== | ==== ● 庭園主財団本部石庭(札幌市) ==== | ||
| - | 庭園主が79歳で設立した**「庭園主庭苑保存財団」**の本部に造営された石庭。\\ | + | 庭園主が79歳で設立した**「庭園主記念自然造園財団」**の本部に造営された石庭。\\ |
| 財団設立記念として本人が監修した最後の庭で、 | 財団設立記念として本人が監修した最後の庭で、 | ||
| * 満洲の凍土を模した白砂 | * 満洲の凍土を模した白砂 | ||
| * 北海道の安山岩を北斗七星状に配置 | * 北海道の安山岩を北斗七星状に配置 | ||
| * 中央に「無言の守護者」と刻まれた石碑 | * 中央に「無言の守護者」と刻まれた石碑 | ||
| - | など、集大成的意匠となっている。石碑の裏面には、彼の遺言めいた一文が刻まれる。\\ | + | など、集大成的意匠となっている。石碑の裏面には、彼の遺言めいた一文が刻まれている。\\ |
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